コロナで外出を控えている人も多いはず。
こんな時こそ、『街道をゆく』(司馬遼太郎著)を読んで、疑似旅行体験をしてみてはどうだろうか。
自分の行きたい地方へ。
私がなにげなく手に取ってみたのは「羽州街道ほか」篇である。
このシリーズが読み継がれているのは、人々の生活が歴史の積み重ねの中で営まれていることをあらためて教えてくれるからだと思う。そして読むたびに教えられることがある。
地方ならではの郷土料理も
司馬さんは食にあまり興味はなかったようだが、郷土料理の話もときどき出てくる。
米沢では、前菜に「あけびの皮の油いため」が出た。私は実しか食べたことはないのでわからないが、干して苦みを取り、味噌を詰めて炒めたものだという。たぶんおいしいはずだ。
そして米沢牛のすき焼きを食べて一言。
《牛肉は、うまかった。》
それはそうだろうが、もうこの言葉だけで、よだれが出てくる。
今も「みやこ」に権威が集中
ところで、東北を語るときに必ずと言っていいほど触れられるのが、日本人の「都鄙意識」だ。この差別意識はいつから始まったのか。
その祖型は「奈良の都(平城宮)という、長安の都城を何分の一かに縮めて設計施工されたときから出発している」という。
そして敗戦後―
《すべての国税が地方から吸いあげられて東京に集中し、東京の政府は気が遠くなるほどの金を集散する機能を持っている。巨大な金が首都に集中するためにそれにともなって巨大な人口が集中し、依然として首都は平城京に似て不必要なほどの高位置を占め、鄙は依然として貧乏くさく、いぶせく、地方としての重要な蓄積を持ち得ずにいる。》
司馬さんはこう記しているが、令和になってもそれはあまり変わらない。
コロナ後の地方創生は?
時に強権的な面がのぞくが、ふるさと納税など地方重視の取り組みも目立つ。だが、肝いりで始めた「Go To トラベル」は頓挫。
はたして、課題の地方創生をこれからどうするのか。
コロナショックは、あらためて地方のあり方を考える機会にもなっている。