保険証を残せ
ただ健康保険証をそのまま残せばいいだけなのに、なにをそんなに廃止にこだわるのか。
反対の声にいっさい耳を貸さず、マイナンバーカードと保険証の一体化を押し通そうとする岸田政権。
マイナンバーカード普及につぎこんだマイナポイントの支出は「国費1兆円を超える」という。
お得をゲットしたつもりの「ポイ活民」。
甘い言葉につられ、結局、税金をふんだくられ馬鹿を見る。
「タコ足配当」みたいなもんだ。
それだけの国費を投入したこの大事業。
得するのは、やっぱり利権をばらまいた政治家と、事業を請け負う企業、所管する官庁(さらなる天下り先の確保)だけじゃないか。
9月のマイナ保険証の利用率はいまだ4.5%と低迷している。
当たり前じゃないか、あんな使いにくいもの。「同意」ばっかり求めやがって。
防衛費増額も、アメリカに押しつけられた言い値の武器や装備品の支払いにまわるだけ。
そしておそらく大阪・国際万博も失敗は必至。
万博もカジノもやめたらいいのに。
まして消費増税と引き換えにさらなる法人税の減税、なんてことになれば。
やっぱり政治家にまかせていては、この国はほろびる。
11月に入り、日経新聞「私の履歴書」では、前日銀総裁・黒田東彦氏の連載が始まったが、この人も、懺悔の気持ちはさらさらなさそうだ。
「終戦期に生まれ、半世紀以上も政策の現場にいた体験を、次世代を担う人々のために記そうと考えた」
へえ~、次世代に膨大なツケを残したのは誰なんでしょうねえ。
やっぱり、国民ひとりひとりが声を上げていく―しかないですね。
楽しみは少しずつ
年頭から無為に過ごし、なにも書かないまま、あっという間に如月を迎えてしまった。
昔はやった六星占術によると、今年は「立花」のようなので、これまでの成果がむくわれるはずと勝手に思っている。
それにしても、占い本の印税などで巨万を富を得たはずの細木和子さん。自身は幸せな人生だったのだろうか。
まあ結局、死んでしまえば格差なんて関係なくなるのだから、「あまり人と比較するのはやめたほうがいい」。
そう思うのだが、時々、人をうらやんだりするから、いけない。
子供の頃は、中年になったらそれなりの人格者になるのだろうと素直に思っていたのだが、年を重ねるたびに人は頑固になる。
そして世の中、巨悪から小さな悪まで、悪人だらけだ。
こんな人になりたいなと思える人に巡り会うのは、もう本の中だけになってしまったような気がする。
ところで、投資のほうはiDeCo以外はポケットマネーなので、額面的にはしれているが、小さな雪だるま(株式・投信)をころがし続け、ゆっくりではあるが大きくなっている(まだ赤ちゃん程度だが)。
損切りをする必要にも迫られていないので、「成功中」と勝手に納得している。
1月は、ダブルバガー超えとなった三菱UFJの株を一部利確し、東海圏のTOKAIホールディングスの株を買った。優待が楽しみだ。
近鉄の株はすでに持っているので、そのうち三重交通の株も買い、電車・バスの優待乗車券を使って三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)を生んだ東海地方にどんどん旅行しようと思う。
そして次は、上がる前から買っていた地銀株や三菱自動車など自動車関連株が5割高目前となってきたので、どこで売るか、それとも保持するか、考えどころだと思っている。
まあそうやってあれこれ考えるのも投資の楽しみ。
お金があればなんでも買えるが、人と比べることなく、自分なりの成果を積み上げていく。
楽しみは少しずつ生まれるほうが、長い人生、いいような気がします。
伝わらないデジタル化社会
ネットには情報が氾濫しているのに、大事なことが伝わらない。
国債を当てにした防衛費の増額や原発政策の転換を見ると、そう思う。
東日本が壊滅するかもしれないというほどの危機に見舞われた3.11を、もう忘れたのだろうか。
伝えなくてもいい情報ばかりがあふれ、伝えないといけないことが伝わらない。
結局、自分で考えてないから伝わらないのかもしれない。
いまさらながら『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著)を読んでみたが、書かれた頃には1000兆円程度だった国の借金は、今では1200兆円超まで膨れあがり、基礎的財政収支(プライマリーバランス)も赤字のまま。
養老孟司さんの著書の言葉を借りれば、平成は「煮詰まった時代」。
実態経済も煮詰まって、すでに需要の飽和点に達しているので、もう持続的成長はありえない。
「脱成長という成長」を本気で考えなければならない時期を迎えているという水野氏の指摘はその通りだと思うのだが…。
令和も来年は5年目。「煮詰まった」後は、どうなるのだろうか。
「令和」という元号が決まった時、当時の安倍晋三首相(今年7月逝去)は記者会見で「一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願い」を込めたと説明していた。
しかし実際は、そう話していた安倍氏はテロに斃れ、活発に言論活動を展開していた社会学者の宮台真司さんもテロに遭うような「クソ」な世の中だ。
0か1かのデジタル化が進み、なんでも簡単に伝わりそうなのに、大事なことが伝わらない「断絶の時代」に入っているような気がしてならない。
陸も、海も、空も、こわい
自動飛行のドローンが空を飛び交う。
そして、クルマの自動運転も夢でなくなりそうな近未来。
ある意味、かつてのSFに描かれたような世界の到来だ。
ただ、なんとなく恐ろしく感じるのはなぜだ。
今年4月の北海道の知床遊覧船沈没事故もあっという間に忘れられそうだが、「人命軽視」「安全軽視」は当該企業や所管行政庁だけの問題ではないはず。
陸では、高齢者が運転する車が歩行者につっこむ事故が後を絶たない。あおり運転も目に余る。
結局、人そのものが信用できなくなっている。
こうした中、航空法の改正で、操縦者らの目が届かなくても、人がいる場所でドローンを飛ばせるようになったという。
便利には違いないが、はたして安全性は担保できるのか。
信用できない人より、コンピューターによる自動飛行の方が安全かもしれない。だが、事故が起こったとき、結局、責任を取るのは人だ(実際はほとんど責任逃れするけど)。
高齢者ばかりの社会になって、災害時も含め僻地などの配送にはいいかもしれないが、住宅地の上を飛んで都市部までクローンで宅配?
便利さを追求して結局、人間ますます退化しないか。
気づけば、戦争もドローン抜きには考えられなくなっている。というか、機械なんてそもそも兵器開発先行で、民間の平和利用は後付けだったか。
『「無人戦」の世紀:軍用ドローンの黎明期から現在、AIと未来戦略まで』(原書房)の最初のくだりには、こんな一節がある。
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ドローン戦争は単なる機械の話にとどまらない。それが引き起こすのは、1990年以降世界の超大国として君臨したアメリカと、中国、インドといった勢いのある国々とのパワーバランスの変化の問題だ。ドローンの発展はアメリカが世界で展開してきた対テロ戦争と密接に関係していた。現在では紛争の火元は米中、米イランの対立へと移り、それに伴いドローン戦争も変わっている。世界じゅうで、今やドローンが真価を発揮しつつある。
「顔のない悪魔のマシン」が上空から死をもたらす世界。
そんなことにならないか。
人もコンピューターも盲信すれば裏切られる。
やっぱり、「陸も、海も、空も、こわい」
来年こそ「疫病退散」相場?
あっという間に令和4年もあとわずか。
大阪では、一年の最後を締めくくる“とめの祭り”と呼ばれる「神農祭」(神農さん)が、今年も11月22、23日の両日、くすりの町、道修町の少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)で開かれている。
3年ぶりに屋台も復活し、少しにぎわいが戻ってきたが、いまだコロナ禍が続く中、「疫病退散」の願いはまだまだ届きそうにない。
そうはいっても、願わずにはいられないのが人の常。
神農祭は、江戸時代の文政5(1822)年にコレラが流行した際、病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を作り、「神虎」(張子の虎)の御守と一緒に神前祈願の後、施与したことに由来するという。
ちょうどそれから100年。令和の時代になっても、無病息災を祈り張子の虎を求める人は後を絶たない。
まったく来年こそは、本当に「疫病退散」といきたいところだ。
そうなると、相場はどうなりますかねえ。
株価は先に動くというから、もう芽は出てる?
岸田ではもう駄目なのバレバレだし、国際社会は一触即発。
銘柄選びが難しい時代に突入した気がします。
「画面」ばかりで、お腹いっぱい
なんかおそろしいばかりに誰も彼もスマホを見ている。
家にいても、街に出ても。
スマホじゃなけりゃあ、タブレットかパソコン。
要するに、ほとんど「画面」ばっかり見てる。
もちろんオフィスでも。会議までもが画面越しだ。
日本人、いつの間にこんなに画面ばっかり見てることになったのだろう。
なにをそんなにと、個人的には少し怖さを感じる。
中島みゆきの出てる「働くの停止スイッチ」発動のCMみたいに、ときには不要不急のすべての電源をオフにしてみたらどうだろう。
日本全国でスマホ強制終了。
そうなると、もう人と生で交わるか、花鳥風月をめでるしかない。
まあ、そもそも生で人と交わりたくないからSNSとかを多用するわけで、そうなるとやはり、花鳥風月。それが自然か。
秋の夜長。例えば虫の音を聴き、月をめでながらの晩酌。
牧水の歌のような心境ですな。
白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり
画面はほどほどにして、いまふたたびの「ディスカバー・ジャパン」。
オリエンタル日本人には、それがお似合いだ。
インフレの思い出
ある年代以上には強烈に印象に残っている1970年代前半の「狂乱物価」。
オイルショックをきっかけに物資不足が噂され、トイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動が起こるほど、市民がパニックになったインフレ時代である。
1973年(昭和48年)当時は、日本列島改造論の田中角栄内閣。2桁インフレが続き、翌年には第二次世界大戦後初のマイナス成長になった。
子供の頃の話なので、よく覚えてはいないのだが、高度経済成長のおわりが明確になり、「省エネ」というエコな政策言葉が出てきた時代である。
当時の社会の雰囲気を味わいたければ、テレビドラマ『雑居時代』(主演:石立鉄男など)なんかを見ればよく分かる。
いまならアマゾンのプライムビデオで無料で全話観られるが、セリフの中に物価高騰の話(「どんどん値上がりしちゃって」等々)が頻発する。大原麗子の美しさに出会えるドラマでもあるので、観たことのない人もぜひ観てほしいところだ。
ところで、何十年ぶりに「インフレ」がやってきた現在。当時ほどではないが物価高騰がしばらく続きそうなのに、賃金が上がる気配もなく、サラリーマンの実質収入ダウンは必至である(ここ数年ずっとそうだが)。
しかも円安で、普通の日本人はどんどん貧乏人になっている。
ちなみに、1973年は『ノストラダムスの大予言』や小松左京の小説『日本沈没』など、終末論的な本がもてはやされた年でもある。
超悲観的な私は、いずれ日本もかつてのドイツのようにハイパーインフレにならないか不安である。
『雑居時代』の主題歌「そよ風のように」生きたいのに―。
そよ風のように 生きていきたいの
触れ合う人に 幸せ運びたいの
幸せ運びたいの