まほろば紀行~つれづれなるままにレトロに生きる

日々の雑感や昭和レトロ、素人の投資ことはじめを語ります。

老いていくということ

 

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人生の散り際は…

50代になると着実に老いを実感していく。体力的にはまだ頑張れそうだが、まず老眼になる。五十肩も経験する。若いときは徹夜なんて平気だったのに、とてもそんなことはできなくなる。

健診の数値もいつしか悪くなり、大小あれど、やがて多くの人がなんらかの持病を抱えていくようになる。

そう、人は着実に老いていくのだ。

「自分が生きる」中で「人の死」が重なっていく

この間、久々に椎名誠さんの小説を読み返したが、今回は8年前に出された『ぼくがいま、死について思うこと』を読んでみた。

最近、さらに死を身近に感じた思いを綴った『遺言未満、』を出されたから、死生観が変わっているかもしれないが、先の本は椎名さんが60代後半に身近な人の死について初めて書いたもの。

書いている間にも親友の死に会い、最後はこう締めくくられている。

 《ぼくはあといくつこういう場に立ち合うのだろうか。そしていつ自分がこういう場でみなにおくられるのだろうか。それは、わからない。ぼくにも、そして誰にもわからない。》

スーパー「じいじい」も死が身近に

頑健そのものの椎名さんも高血圧やうつ、不眠を抱えて生きてきたことを知ってちょっとほっとした部分もある。でもこの「じいじい」(お孫さんはこう呼んでいたようだ)は、スクワット300回、腹筋200回、腕立て伏せ100回を日課とし、体脂肪率一ケタのスーパーじいさんだ。

そういう人でも「ぼんやりしていても『死』はどんどん身近に迫ってきているのだ」と実感する。

ましてや人生100年時代。とにかく老後が長すぎる。老後の資産形成を考える際、これからは若いときからそういうこと(要するに終活)も考える機会を持った方がよいのかもしれない。

「人生会議」で最期を決める?

余談ながら、家族や医療者と終末期医療の話し合いをすることを、国は「人生会議」という言葉で普及させようとしているが、いかにも会議の好きな役人が選んだ空疎な言葉だ。これが愛称というのだから余計におかしい。

会議というのは、普通「議決するために関係者が集まって相談すること」を指す。

理想的な死に方はあっても、そうなるとは本人にも誰にもわからない。ましてや弱っている最後に本人が決断を下せるのか。それともまわりが忖度するのか。

いずれにせよ、最期に向けた人生最後の決断。

答えが一つに決まると思う方がおかしいと思いませんか?