家族とはなんだろう。
先日、長谷川町子記念館を訪れたこともあって、なんとなく考えてみた。
「サザエさん」で描かれた3世代同居の家族はある意味、昭和では「理想の姿」。いつも、なごやかでほのぼの。けんかをしてもすぐ仲直り。みんなでちゃぶ台を囲み、テレビを見ることもなく、談笑しながら仲良く食事をする―そんな一家の情景に多くの人が癒やされてきたからこそ、いまも続く国民的アニメになったのだろう。
4コマ漫画「サザエさん」が新聞に連載されたのは1946~74年(昭和49年)。実際には、都市化や高度経済成長で、平均世帯人員は徐々に減少し、核家族化が進行。やがて核家族化がピークを迎えると、今度は一人暮らし世帯である単身世帯(単独世帯)がどんどん増えている。
高齢者(65歳以上)の視点で見るとこんな感じだ。
「ひとりぼっち」世帯がどんどん増えている。
家族像の変遷で、直近の「男女共同参画白書」が示しているように、「もはや昭和ではない」ということだろう。
昭和の時代、多く見られたサラリーマンの夫と専業主婦の妻と子供、または高齢の両親と同居している夫婦と子供という3世代同居は減少し、一人ひとりの人生も長い歳月の中でさまざまな姿をたどっている。
と指摘し、「こうした変化・多様化に対応した制度設計や政策が求められている」と白書は言うのだが、非婚化、晩婚化、少子化の流れは止まりそうもない。
調査では、20代の女性の約5割、男性の約7割が「配偶者、恋人はいない(未婚)」と回答したという。
結婚しなくても、ひとりでも、それなりに幸せ―。そんなふうに、幸福感が変わってきていることもあるのだろう。
少子化はとめようがない―。特効薬がないだけに無策を政治家のせいにするわけにもいかず、結局、そう思ってしまう。
子供に対する親のあり方も変わっている。
サザエさんの時代は夫はサラリーマン、妻は専業主婦が当たり前だったが、いまや共働きは当たり前。企業によっては夫も育休が取れるようになった。
それが普通の時代なのかもしれないが、私は妻は専業主婦でいいと思った。
いい悪いではない。ただなんのための母性なのかと思うだけだ。
単に、おむつを変える、ミルクをあげる、お遊びをする、ということではない。その行為のひとつひとつ、そのときの子どものしぐさや反応、そうしたひとつひとつに、母と子どもの心の交流があると感じるからだ。
それは子と母だけの世界。父や他人では代用できない。
それがどれだけ、かけがえのないことか。
私も時間のある限り、娘と遊んだ。
私の娘はなかなか寝ない子どもだったので、仕事を終えて帰ってきたときは、夜のお散歩が日課だった。
よちよち歩きの娘は嬉々としてついてきた。
それは父親にとって、本当にかけがえのない時間だった(大人になった娘の記憶にはおそらくないだろうが)。
いま思えば、遊んでもらって幸せをもらったのは私のほうなのだろう。
―――
個人的なことは置いといて、世相はどんどん殺伐としている。
「親ガチャ」はその最たるものだと思う。
要は自分の不幸を、人のせい、親のせい―にするということ。
まあそういう境遇もたしかにあるとは思うが、人を恨んでも憎しみが増すだけ。
親ガチャによる不幸を考えると、安倍晋三元首相を襲撃した容疑者にも当てはまるかもしれない。
でも
もしかしたら、彼は、自分で切り拓く世界を描けたかもしれない。
比較するわけではないが、今、メディアによく登場する米エール大助教授の成田悠輔さんも親ガチャという観点からみると、すごい人生を送ってきたことを知った。
先日の日経新聞のインタビュー記事によると、高校3年の時、お父さんは借金を残して蒸発し、それ以来会っていないという。
そんなことをものともせず東大を卒業、そしていまやメディアがほっておかない時の人。
「親ガチャ」なんか、くそくらえ。
彼はそれを平然と証明している。
まったく、すごい、としか言いようがない。
昭和の時のように、個として、人生を切り開いている日本人は令和にもたくさんいるのだ。
ただ、国として考えた場合、債務大国日本の未来はひらすら暗い。
人口的には、これがこの国の姿。
正直、泣けてくるような未来。
もう人口減は避けられない。
そして安倍氏なき今、金融緩和の「アベノミクス」もおそらく限界。
さて、選挙で「黄金の3年」を得た岸田政権。
「もはや昭和ではない」中で、どう改革する?
既得権益そのままの政策を続けたら、もう、未来はない。
それを「国ガチャ」のせいにするのは御免だ。